母が救急車で病院に運ばれた翌日、
風呂を出て、晩ごはんを食べようという時に
病院から電話がかかってきた。

脈と呼吸の値が下がってきて
もしかしたら危ないかもしれない。
…と。

急いで支度をして、父と車に乗り、
途中、妹を拾って病院に向かった。

病室の母はひどく苦しそうだったが、
意識は辛うじてあった。
少し会話をすると、受け答えがキツくなってきた。

母が必死に何かを伝えようとするのだが、
酸素マスクが邪魔だし、
先ほどから泥酔した人のように
色んなものの区別がつかなくなってきている。
そんな状態でなかなか聞けない。

「なぁに?ゆっくりでいいよ?」
と声をかけると

「先生に…言って…」
と返ってきた。
何を言うのだろう。
どこか苦しさに変化があったのか、
モルヒネの依頼か。

「うん、言うよ。なんて言えばいい?」

「ねこ…猫が、2匹いますって…」

…猫?

「猫のこと…ちゃんと伝えて。オスとメスで…」

もうゴチャゴチャなんだなと察した。
先生は医師で獣医さんではない。
意識が混濁してきて、
夢と現実と色んな情報が混ざってる。
それでも、とにかく猫が心配なのだ。
なんとか猫のことを伝えなくてはという、
母の強い意思がギリギリ母の口を動かしてる。

「うん、伝えるよ。猫が2匹いますって
 大丈夫、ちゃんと伝えるし、ずっとお世話するよ」

母が動きを止める。
ここに私たちがいると、
きっと母はずっと頑張ってしまう。
私たちは母に、
「おやすみ」と言って病室を出た。
妹はずっと涙を流していた。


夜の10時になろうとしていた。
実家にも妹の家にも猫がいる。
母がどれだけもつのかはわからないが、
猫に翌朝の朝ごはんは必要だ。
なので病院に私が残り、
それぞれの家主は一度帰ることになった。

常夜灯が思いの外明るく、
母の表情がよく見える。
苦しいのだろう、
呼吸に辛そうな声が混ざっており、
無意識に両手を顔の前で何度も動かしている。

夜中の2時くらいになると
苦しそうな呼吸がなくなった。
ゆっくり静かに息をしている。
動かしていた手も止まって下ろしていた。

とても静かだった。
動きもなく、呼吸もゆっくりすぎて、
生きているのかよくわからなくなってきた。

ベッド横の生体情報モニタの数字が
母がまだ生きてる証のようだった。
その数字が少しずつ小さくなっていく。
あぁ、終える準備なんだな…と
画面をずっとボンヤリ眺めていた。

朝方、脈が40を切り呼吸が一桁になる。
家族に電話をした。


家族を待っている間、医師が、
聴覚は最後まで残りやすいと言われてるから、
声をかけてあげていいですよ
…と言っていたのだが、
これが、驚くほど声がでない。

おい、誰だドラマや漫画で
「おかぁさーーーーん!!!!!」
みたいに泣き叫んでたやつ。

出ない出ない。
何度話しかけようとしても震えて
かすれて全く声にならない。

これだけは言っておかないとと思い、
なんとか絞り出して、ようやく

「お母さんありがとね」

と一言だけ言えた。
空気かよ。と思うくらい、
我ながらひどい声だった。
しかもその瞬間、母の呼吸が0になってしまった。

焦った。

…おい、先生、
声をかけたら呼吸が止まったぞ?
本当にこれは正解なのか?

看護師さんが急いできて
酸素濃度を上げる。
これで生存確認は脈のみになってしまった。

その脈もどんどん減っていく。

待ってよお母さん、
もうすぐ父と妹が着くんだよ。
もう少しだけ待ってよ。頼むよ。

死なないでとは思えなかった。
だってこれは絶対死ぬやつなのだ。
でも、あと少しだけ待ってほしかった。
母の指を握って、
例の声にならない声で、
何度も小さく「待って」と繰り返した。

モニタの数字が0になって、
装置からけたたましくアラームが鳴る。
他のところでもコールがあるのか、
看護師さんはまだ来ない。
アラームがうるさい。

雨が降りだした。

雨の音が気になるが、
とにかくアラームがうるさい。
母はまだ温かいけど、
脈も呼吸も0だ。
頸動脈に手を当ててもピクリともしない。
音の止め方がわからない。

…アラームがうるせぇ。

ずっと
「死んだよーーー!!!」
と言われているみたいで
このアラームが不快でたまらない。

目覚まし時計のごとく壊してやろうかと
衝動的にモニタに近寄ったところで
ようやく急いだ様子の看護師さんが来た。


母は心停止の際は蘇生活動はしなくていいと
誓約書にもサインをしていたので、
そのままご臨終となった。


少しして父と妹が到着した。
母はまだ少し温かかった。


色々と手続きをして、
母の支度を整え、寝台車に乗せる頃には、
さっきまで降っていた雨が止んで、
アホみたいに晴れていた。

太陽が出て朝露がきらきらして、
外は少し眩しかった。

…人生の門出かなにかか?

死んだタイミングで雨が降りだし、
出発のタイミングで晴れわたる。
なんかすごく理不尽な気がしてきた。

なんの門出だ?(クソかよ)


久しぶりの徹夜と謎の不条理さが相まって
なんだかとても疲れた。

朝日が、朝露に反射しまくる光が、
晴れ渡る空が、徹夜明けの目にしみる。
涙はまだ出ない。

ひどい気分だった。


帰って猫に伝えなければ。

フミ、テンちゃん、
お母さん死んじゃったよ。


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