母のがん治療が始まってしばらくして、
仙台の叔母から連絡が来た。

私が仙台にいたのは夫の転勤だったが、
元々、母方の叔父夫婦と祖母が仙台にいた。

「おばあちゃんもガンが見つかった!」

高齢で他の病気もあるため、
治療は負担がかかりすぎるので緩和メイン。
転移もあり、おそらく1年はもたない。

祖母には母のガンの話はまだしていなかった。
祖母も母と同じく看護師だったし、
母の病状を伝えれば
助からないことはすぐにわかる。
伝えるタイミングを母と叔母と相談していた。
それが、まさかのコレである。

おぉ、神よ…

「やっぱりクソかよ」

一体何だというのだ。

結局、どっちが先に死ぬかもわからないので、
早急に伝えることになった。

お互いそれぞれ頑張りましょう、と。


4月に母と母のウィッグを買いに行った。
髪は女の命である。

5月に母と母の葬儀やお墓を決めた。
死後、落ち込みテンパってる父に
ワケわからない式や墓を決められるより
自分で好きなものを先に決めておきたいと。

6月に母の遺影用写真を撮りに行った。
できるだけベストな状態で好きな服を着て
自然体で綺麗な笑顔の写真が母の希望だった。
すごく良い写真ができた。

そうやって、少しずつ
母の終活を進めていった。
とても大切なことだったけど、
いつも手伝いながら、
「死なないでよ」と思っていた。
言えるわけがないが。
一番死にたくなかったのは母だったのだから。


祖母は年は越せないのではないか
と言われていたが、危うさと復活を繰り返し、
なんとか年は越し、今年の3月に亡くなった。

母は最初、葬儀に行くと言っていたが
世の中は新型コロナで大変だ。
仮に母に感染すれば99.9%死ぬ。
というか、風邪をひくだけでも死にそうなのだ。
こんなご時世にこんな状態の母を
仙台に連れてはいけなかった。
母の代わりに私が行くことになった。

通夜の間、葬儀の間、火葬の間、
私は母を想っていた。

母はどんな気持ちで
この時間を家で過ごしているのか。
自分ももうじきだと思っているのか。

そのころから抗がん剤の効きがよくなく、
効果は高くないのに
副作用の味覚障害ばかり出ていた。

食べることが大好きなのに、
限られたもの以外苦くて不味いというのは、
どれほど苦痛だろう。

日に日に薬の効果が見込めなくなるのは
どれほど怖いだろう。

愛する猫たちを置いて逝かなければいけないのは
どれほど悲しいだろう。

弱音は吐かない人だったけど、
怖くなかったわけがない。
辛くなかったわけがない。
どれだけ痛くて苦しくて怖くて悲しいのか、
それを飲み込んで
どんな気持ちで毎日過ごしていたのだろう。

やたら寒い日で、火葬場の空気を感じながら、
そう遠くないうちにまたこの空気を味わうんだな
と、ぼんやり考えていた。


やっぱり涙は出なくて、
そのかわり悔しくて
頭の中で神様(仮)にさんざん悪態をついて
しこたま母に土産を買って東京に帰った。


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